Oct. 25, 2024
定年後の夫は妻にとってどこまでお荷物か
Is a Husband’s Retirement a Burden on His Wife’s Mental Health?
要旨Abstract
本コラムでは、夫の引退が妻のメンタルヘルスにどのような影響を及ぼすかという点について、先行研究や筆者自身の研究に基づいて簡単に議論する。日本の統計でも、「引退夫症候群」は確認されるが、結果は妻のライフスタイルにも左右される。
This column succinctly explores the impact of a husband’s retirementon his wife’s mental health. It draws on findings from prior studies andthe author’s own research. The phenomenon known as “retired husbandsyndrome” is evident in governmental data from Japan, although itvaries according to the wife’s lifestyle.
本文Text
高齢者就業を促進すべき真の理由
「全世代型社会保障」をめぐる議論が盛んになっている。できるだけ多くの人々に働き続けていただき、社会保障や経済全体の「支え手」を増やそうという発想で、年金を始めとする様々な制度改革が検討されている。
しかし、高齢者、とりわけ男性の高齢者にもっと働いてもらわないと困る理由は、そんな政策レベルの話だけではない。もっと差し迫った理由は、実は別のところにある。はっきり言おう。旦那が毎日家にいると、奥さんが困るのだ!
それを専門用語(?)で「引退夫症候群」と言う。これはretired husband syndrome の筆者による直訳である。もう少しましな訳し方があるかもしれないが、何を意味するのか、容易に察していただけると思う。
引退が中高年の健康や健康行動にどのような影響を及ぼすかという点については、医療経済学や社会疫学の分野で多くの実証分析が進んでいる。引退すれば自由な時間が増えて健康も改善するとか、逆に生活に張り合いがなくなってストレスがむしろ高まるとか、結果は引退までの仕事の内容に左右されるといった、いかにももっともらしい知見がいろいろ得られている。
しかし、最近では、本人だけでなく、配偶者の健康、とりわけメンタルヘルスに及ぼす影響についても注目が高まっている。日本では、大阪大学のデータを用いたBertoni and Brunello (2017)による研究が最初の例だ。両教授によると、夫の引退後、妻は精神的なストレス、抑鬱、不眠などメンタルヘルス面の問題を抱える傾向が統計的に確認されるという。同様の傾向をヨーロッパ各国でも確認したMüller and Shaikh (2018) の研究もある。
一方、中国では、夫の引退後、妻の健康がかえって改善するというZang (2020) の研究がある。夫の引退を契機にして、妻が社会活動や運動の機会を増やせるからだと説明されている。仕事も家事も男女平等が進んでいる中国では、状況がかなり違うようだ。
筆者は、引退夫症候群は日本でも十分ありそうな話だと思っているが、社会的・文化的な背景も影響するし、時代によっても異なるだろう。女性の社会進出の度合いや、家庭内における男女の役割分担をめぐる社会的規範で左右される面も大きいはずである。
影響を左右する3つの要因
こうした社会全体の在り方とも関係するが、夫が定年を迎えた時点で、妻がどのようなライフスタイルを選択しているかも、妻のメンタルヘルスを左右するのではないか。その点が気になったので、筆者は、厚生労働省の『中高年者縦断調査』のパネル・データを用いて簡単な実証分析を行ったことがある(Oshio, 2021)。この調査は2005年にスタートし、その時点で50歳代だった男女の暮らし方や健康などを長期にわたって追跡している。
夫が引退する直前の妻のライフスタイルとして、筆者は次の3つに注目した。 第1は、社会活動に積極的に参加していたかどうかである。「調査」では、「趣味・娯楽」「地域行事」など6つの社会活動を挙げているが、そのうち3つ以上の活動に参加していれば、積極的だと考える。積極的な妻は、全体の3割弱となる。
第2は、夫との普段の過ごし方である。「会話」「食事」「買い物」など全部で8項目の過ごし方を挙げているが、このうち5つ以上に〇をつけた4割弱の回答者を、夫との過ごし方が密接だと評価した。
第3は、フル・パートを問わず、妻が家庭の外で働いていたかどうかである。
注)エラーバーは95%信頼区間を示す。
このうち第1、第2の点に関しては、結果を比較的予想しやすい。仮に引退夫症候群が発生するとしても、社会活動に積極的に参加しているほど、また、夫と密接に過ごしている妻ほど、その度合いは小さくなるだろう。
しかし、第3の点はどうか。無業の専業主婦のほうが、夫が家にいることを苦痛に思うかもしれないし、逆に、自分が働いていれば、「いままでは夫も働いていたので、私の家事負担が重くても何とか我慢できた。引退して家にブラブラしているのに、家事を手伝ってくれないのはひどい」とストレスを感じるかもしれない。
カギを握る妻のライフスタイル
メンタルヘルスは、ケッスラーの6(K6)という尺度を用いた。この尺度は0 から24 までの値をとり、高いほどメンタルヘルスがよくないことを示す。サンプルの平均は3.4、標準偏差は4.1である。夫の引退直前を出発点にして、このK6がどのように変化するかを追跡するわけだ。
得られた結果を簡単に紹介すると次のようになる。まず、先行研究と同じように、夫引退症候群の存在はここでも確認できる。図に示したように、妻のメンタルヘルスは、夫の引退後いくぶん悪化する。標準偏差の大きさから見ると、それほど大きな悪化とは言えないが、無視できるほど小さいわけでもない。しかし、どんどん悪化するわけではなく、4–5 年するとかなり収まる。要するに、毎日ぶらぶらしている旦那に奥さんも「慣れる」ようだ。心理学でいうところのadaptationというプロセスである。
しかし、妻のメンタルヘルスの変化の様子は、夫の引退前の妻のライフスタイルでかなり違ってくる。社会活動を積極的に行っていた妻の場合、夫が引退してもメンタルヘルスはほとんど変化しない。また、夫と仲良く暮らしていた妻も、メンタルヘルスはあまり悪化しない。そして、仕事を抱えていた妻ほど、夫の引退はメンタルヘルスを悪化させる。家事を手伝ってくれない夫にこれまでは何とか我慢できたけれども、引退後は「もう我慢できない! やってられません」といったところだろう。
これからは、女性も定年までフルタイムで働き続けるケースが増えるはずなので、3番目の要因が重要性を増すはずだ。女性の社会進出や男女共同参画がさらに進めば、男女の役割に関する社会的規範もかなり変化する。夫婦でそれぞれの引退時期を相談して決めるケースも増えてくるかもしれないし、海外ではそうしたことを確かめた研究(Coile, 2004) もある。
すでに、「引退夫症候群」という概念そのものが「昭和的」だ、古すぎると批判されそうだ。今後、引退行動と夫婦のメンタルヘルスの関係はかなり込み入ったものになっていき、重要な研究テーマになるだろう。
参考文献
Bertoni, M. and Brunello, G. (2017) “Pappa Ante Portas: the Effect of the Husband’s Retirement on the Wife’s Mental Health in Japan,”Social Science & Medicine, Vol. 175, pp. 135–142.
Coile, C. (2004) “Retirement Incentives and Couples’ Retirement Decisions.BE Journal of Economic Analysis & Policy., Vol. 4, No. 1, pp. 1–30.
Müller, T., and Shaikh, M. (2018) “Your retirement and my health behavior: Evidence on Retirement Externalities from a Fuzzy Regression Discontinuity Design,”Journal of Health Economics, Vol. 57, pp. 45–59.
Oshio, T. (2021) “What Factors Affect the Evolution of the Wife’s Mental Health after the Husband’s Retirement? Evidence from a Population-based Nationwide Survey in Japan,”Journal of Epidemiology, Vol. 31, No. 5, pp. 308–314.
Zang, E. (2020) “Spillover Effects of a Husband’s Retirement on a Woman’s Health: Evidence from urban China,”Social Science & Medicine, Vol. 245, 112684.
書誌情報Bibliographic information
Vol. 75, No. 2, 2024
Article Number: er.cl.033224
DOI (Link to J-STAGE): https://doi.org/10.60328/keizaikenkyu.er.cl.033224