Jul. 26, 2024

企業の境界についての理論への新たな視角:グループ・アイデンティティーと関係特殊的投資に関する実験分析

森田穂高(一橋大学経済研究所教授)

New Perspectives on the Theory of the Firm Boundaries: An Experimental Investigation on Group Identity and Relation-Specific Investment

Hodaka Morita (Institute of Economic Research, Hitotsubashi University, Japan)

要旨Abstract

森田とServátka が2013 年にEuropean Economic Review誌に発表した論文∗の貢献を、森田とServátka が出会ってこの研究に取り組むことになった経緯をおりまぜて、一般向けにわかりやすく解説する。

∗ Morita, Hodaka and Maroš Servátka. 2013.“Group Identity and Relation-Specific Investment: An Experimental Investigation,”European Economic Review, 58: 95–109.

This essay is a brief introduction to Hodaka Morita and MarošServátka (2013) “Group Identity and Relation-Specific Investment:An Experimental Investigation,”European Economic Review, Vol. 58,pp. 95–109, along with the background of how Morita and Servátkacame together to work on this study.

本文Text

企業の境界の経済学的分析

 「企業の境界」とは、聞き慣れない言葉かもしれない。例えば、トヨタのような自動車製造会社は数多くの部品を組み立てて自動車を製造する。もし他社が製造する車体を購入して自動車に組み込む場合には、自動車組み立てと車体製造の間に「企業の境界」が存在する。だが、もし自社で生産した車体を自動車に組み込む場合には、両者の間に「企業の境界」は存在しない。自動車組み立てと車体製造が別会社で行われる場合に比べて、両社が合併して企業の境界がなくなることにはいかなるメリットがあるのだろうか。
 企業の境界は、私が専門とする産業組織論および組織経済学において重要な概念である。企業間の競争や取引関係などを分析する産業組織論においては、企業の境界は分析の基本単位を定めるものであり、組織経済学においては、企業の境界が確定して初めて、企業内部での昇進・査定・賃金決定・職務デザイン・権限移譲などの重要事項の分析が意味を持つ。
 2008年頃、オーストラリアのシドニーにあるニューサウスウェールズ大学で研究教育に従事していた私は、企業の境界の経済学的分析に関して、オリバー・ウイリアムソン(2009年ノーベル経済学賞受賞)が中心となって構築した「取引費用の経済学」やオリバー・ハート(2016年ノーベル経済学賞受賞)、サンフォード・グロスマン、ジョン・ムーアらが展開した「財産権の理論」といった既存理論とは別のアプローチはないものかと夢想していた。これらの理論に反対するわけではない。だが、それらと補完的な、何かもっと直感的でわかりやすく、なおかつ現実的な考え方があるのではないか、と考えていたのだ。私が注目していた鍵概念は、労働者のアイデンティティー(同一性)である。自動車製造会社と車体製造会社が別会社である場合に比べて、同じ会社である場合のほうが、自動車組み立てを行う者と車体製造を行う者が、同一の会社に所属するという意味でより強いアイデンティティーを感じることになり、それが完成車の品質やコストに影響するのではないか。しかし、このアイディアだと、私が専門とする経済理論分析ではなく、実証分析を行わないと説得的な研究はできそうにない。経済実験もよいかもしれない。でも、当時の私には経済実験を行う同僚が周りにいなかった。

好漢マロシュ・セルバトゥカとの出会い

 そんなある日、私の研究室に、エネルギーに満ち溢れた大男がアポなしで突然やってきた。聞けば隣国ニュージーランドのカンタベリー大学から短期訪問でやってきたマロシュ・セルバトゥカ(Maroš Servátka)というスロバキア出身の学者である。他大学を訪問するときはできるだけ多くの学者と話すのを信条としており、いちいちアポをとったりせずに飛び込みでドアをノックするそうだ。ちょっと乱暴な奴だなと思う間も無く、彼は自分が専門とする実験経済学について、最近どんな実験をやっているのか、そこからどんな面白い結果が出ているのかを、いかにも楽しげに話し始めた。

 

 マロシュの話に引き込まれていった私は、「実は、企業の境界の問題をアイデンティティーを鍵概念に分析できないかと、ずっと考えているんだがね。経済実験で、そのような分析はできないものかな?」と聞いてみると、マロシュは即座に、「もちろんできるさ! 被験者に色の違う帽子をかぶらせて、帽子が違う色の被験者同士よりも同じ色の被験者同士のほうがアイデンティティーが強いとする。いや、Tシャツのほうがいいかな。黄色いTシャツとオレンジ色のTシャツなんてね。」とうれしそうに言う。自信満々である。それでは夕飯でも食べながらもっと話そう、ということになり、近くのベトナムレストランで食事しながら話し合ったのが、Morita and Servátka(2013) で行った経済実験の原案である。

Morita and Servátka (2013):企業の境界とアイデンティティーに関する経済実験

 被験者A(売り手)とB(買い手)に以下のようなゲームを行わせる。まず、AとBのそれぞれに、実験参加の謝礼として10ドルを支払う。次に、Aはその10ドルをそのまま持ち帰るか、または「投資」するかを決める。前者を選んだ場合は、AとBそれぞれが10ドルを持ち帰ることとなり、ゲームは終わる。一方、投資を選んだ場合、Aは10ドルを失うが、投資のリターンとして14ドルが生み出される。ただし、その14ドルが自動的にAとBに割り振られるわけではない。BはAに対して、その14ドルのうちの自分の取り分として、1ドルから14ドルまでの間の金額をAに対して提案する。例えば、Bが8ドルを提案したとしよう。もしAがその提案を受ければ、Bが8ドル、Aは6ドルを受け取り、ゲームは終わる。もしAがその提案を拒否すれば、その14ドルは消えてなくなり、AもBも受け取り金額はゼロとなってゲームは終わる。Aは0ドル、Bは参加謝礼10ドルのみを持って実験室を去ることになる。
 経済合理性を基礎とする標準的な経済理論によると、予測される結果は「Aは投資を行わない」である。仮にAが投資を行ったとしよう。するとBは可能な最低金額である1ドルをAに提案する。Aは、その提案を拒否して何ももらえないよりは1ドルでももらったほうがよいので、その提案を受ける。しかしAは、投資するか否かを決める際に、自分がもし10ドル投資したらBは最低金額1ドルしかくれないことを予測するので、投資を行わない、というわけだ。
 10ドル投資すれば14ドルのリターンが確定しているのに、その投資が行われないのは、社会的な観点からは非効率的な意思決定だと言える。この非効率性の問題は「ホールドアップ問題」として知られている。ここで、Aを車体製造会社の社員、Bを自動車製造会社に読み替えてみよう。さらに、Aの投資は「B社にとってのみ価値を持つ技能の向上への投資」だと読み替えてみよう。もし投資すれば、Aが製造する車体のB社にとっての価値が向上するが、B社以外の自動車製造会社に使われた場合にはその価値を向上させない。Aの投資がB社にとってのみ価値がある関係特殊的投資(relation-specific investment)であることが、Aが投資を行わない理由として重要である。
 このようなホールドアップ問題は、B社が車体製造会社を合併することによって解決できるのではないか。1) この可能性に関して、上述の「財産権の理論」は合併による資産の所有権の移転が重要であると論じる。これに対して我々は、合併すればAはB社に対して「同じ会社の社員なのだ」というアイデンティティーを持つことになり、それがもし投資すればB社はそれなりの見返りを与えてくれるだろうという信頼感につながって、Aが投資する可能性を高めるのではないか、と予測したのである。
 そこで我々は、上記の売り手Aと買い手Bによるゲームに関して、「AとBの間のアイデンティティーがAの関係特殊的投資を促してホールドアップ問題を軽減させる」という仮説を経済実験で検証した。被験者として1回の実験で30人程度の大学生に教室に来てもらい、くじ引きで黄色組とオレンジ組に分ける。各人にそれぞれの色のTシャツを渡してその場で着てもらい、黄色組とオレンジ色組それぞれの中で簡単な助け合いのエクササイズをしてもらう。助け合うことによって、各組の中で集団としてのアイデンティティーを作り出すねらいである。その上で、上記AとBの間のゲームを、2通りのやり方で行う。ケース1では、AとBを同じ組(黄色組同士、オレンジ色組同士)の被験者とし、AとBの間にアイデンティティーがあるケースと解釈する。ケース2では、AとBは違う組(一方は黄色組、もう一方はオレンジ色組)の被験者とし、AとBの間にはアイデンティティーがないケースと解釈する。そして、二つのケースを比較する。258人の被験者に対して実験を行った。
 この実験で我々は、ケース1のほうがケース2よりもAを割り当てられた被験者が10ドルを投資する確率が統計的に優位に高い、という我々の仮説を支持する結果を得た。これは実験室実験の結果であり、実際の世の中にどの程度当てはまるのかは今後の研究に待たねばならない。だが、アイデンティティーが関係特殊的投資のインセンティブに重要な影響を与える可能性を示した最初の論文として、これまで様々な角度から研究されてきたホールドアップ問題、さらには「企業の境界」の経済学的分析に関して、新たな研究の方向を指し示すものとなったと自負している。この研究におけるマロシュの八面六臂の活躍は特筆に値する。実験は彼が所属するカンタベリー大学で行ったが、実験の実施方法を確定して大学の倫理委員会の承認を得ることに始まり、被験者への支払いなどのための研究費調達(これには私も協力)、300着の黄色とオレンジ色のTシャツの発注・購入・保管、助け合いエクササイズのためのクイズ問題の作成、250名を超える被験者の調達・管理、そして丸1週間を費やしての実験実施(これには私も協力)と結果のデータ処理などなど、大きな仕事から細々とした作業まで、テキパキと行ってくれた。
 マロシュと私はこの後、3本の共著論文を公刊した。現在は、アイデンティティーが企業内の昇進に与える影響を分析する実験論文の詰めを行いつつ、次の実験研究の案を練っているところだ。たまたま出会って意気投合した研究者との共同研究が長年にわたって続いてゆく。このような出会いもまた、経済学研究の醍醐味の一つであろう。

1) 1926 年に米国のゼネラルモーターズ社が車体製造会社のフィッシャーボディーを吸収合併した事例は、多くの経済学論文においてこの文脈で議論されてきた。

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書誌情報Bibliographic information

Article Number: er.cl.033124
DOI (Link to J-STAGE): https://doi.org/10.60328/keizaikenkyu.er.cl.033124